空間工房代表 佐藤孝 生い立ちと家づくりへの想い

佐藤家の次男として生を受ける

昭和43年2月2日

庄内町(旧余目町)にて、
佐藤家の次男として生を受ける。

お祖母ちゃんを筆頭に、父、母、兄との5人家族。

古き時代を重んじる家庭で、
食事も、

父と兄の前には「さんま」

お祖母ちゃん、母、私の前には「めざし」

と、料理が違うのが当たり前。

父は公務員、
母は会社勤めの事務員。

「公務員」になるのが正義だと育てられ、
5つ離れた文武両道の兄といつも比べられていました。

贅沢はダメ。

おもちゃや洋服は全部兄のお下がり。

カブトムシやクワガタを捕まえても、
虫カゴすら買ってもらえませんでした。

それでもお祖母ちゃんが大好きで、
畑について行ってトマトやキュウリを取り、
食べさせてもらえることが、
とてもうれしかったことを覚えています。

そんな子ども時代の小学4年の時、
事件が起こりました。

僕は犯人じゃない!

家の近くの線路に石が置かれ、
電車が停止。

家の前で1人で遊んでいた私の前に、
見知らぬ大人が2人。


「僕、話を聞かせてもらってもいいかな?」


そのまま警察署に連れていかれ、
どれだけ、


「僕じゃない!」


と言っても、
犯人は私だと決めつけている様子。


お母さん早く来て・・・・・・


親が来てくれれば状況は変わると信じていました。

しかし、母は警察署に入って来るなり、


「本当に申し訳ございません!」


「あんた!何てことしたの!謝りなさい!!!」


僕は犯人じゃない・・・・・・


結局、犯人は私ということに。

親は電車を止めた罰金まで支払っていました。

しかし事件から10日後のこと。

またもや同じ線路に石が置かれるところを、
たまたま線路脇の家の人が目撃。

真犯人逮捕。

私の名誉は回復されました。

人生を左右した中学時代

母にはいつも人と比べられ、
批判されて育てられた私。

親に背を向けて日々を過ごすように。

そんな中の中学1年の冬、
刺激が欲しかったのか、


久しぶりにスキーでもしてみよう!


兄のスキーをこっそり持ち出し、
電車に乗って、
高屋駅を降りてすぐの最上川スキー場(平成12年閉鎖)へ。

スキーは小学3年生以来でしたが、
そこそこ自身はあったものの、
全く上手に滑ることができない。

思うようにできなくて、
自分に腹が立って仕方なかった私は、
家に帰り父に、


「スキー道具を一式買ってください」


これが何かを買って欲しいという、
初めてのお願いでした。

背を向けて過ごしている私に、


少しでも何かに打ち込めるなら、
という思いもあったのでしょうか。


「車に乗りなさい」


向かった先はスポーツ店。

その日を境に学校へも行かなくなり、
毎日スキー場にいる生活が始まりました。

とにかく誰にも負けたくない一心で、
オープンからクローズまで昼食も取らずに練習。


「おはよう。今日も学校サボリ? 学校行けよ! あははは、、、」


スキー場のスタッフの中に、
いつも気軽に声をかけてくれる人がいました。

その人がある日、


「こんなのすごくない?」


と、スキー雑誌を見せてくれました。

そこには大きなコブが並ぶ斜面を豪快に滑っている、
アメリカ人の写真が載ってました。


「これ、モーグルって競技なんだ」


私は日に日にモーグルの魅力にはまり、
いつかはアメリカに渡り、
プロモーグルの大会に出てみたいと思うようになりました。

そんなスキー漬けの日々の中、
大好きだったお祖母ちゃんが逝きました。

しかもその日は私の誕生日。

生前、お祖母ちゃんは、


「お前はお前らしく生きなさい」


何かある度にそう言ってくれました。

その言葉は今でも大切にしています。

お祖母ちゃんが逝ったその日、


「自分らしくとは何だろう・・・・・・」


お祖母ちゃんの亡き骸の隣に寝転がり、
初めて真剣に考えたのを覚えています。

高校中退と家出

中学3年生、
嫌でも進路を決めなければならない年。

両親との闘いの日々が始まりました。

もともと勉強が嫌いで、
中学校でさえまともに通わなかった私。


「高校へ行って勉強する気はないし、
 そもそも行く理由が見つからない!」


世間体ばかりを気にする母は、


「高校に行かないなんて恥ずかしい!
 兄ちゃんは大学行ってるのに!」


少しずつではありましたが、
私を理解し始めてくれていた父も、


「高校だけは行った方が後で後悔しないと思うぞ」


結局は両親に押し切られ、
酒田市内の高校に入学。

高校生活が始まりましたが、
入学から1ヶ月が過ぎた頃には学校へも行かなくなり、
遊びまわる日々が続いていました。

そんな自分を両親は見て見ぬふり。

おそらく、
卒業だけしてくれればと考えていたのでしょう。

何の目的もなく、
ただ遊んでいるだけの自分の中にも、
ある思いが大きく膨らんでいました。


スキーで勝負したい!


高校1年の12月、


満を持して家出


北海道へ旅立ち、
大きなスキー場のスキースクールの門をたたきました。

運命の出会い

スクールの校長先生が父に電話。


「どういたしましょうか? 送り返しますか?」


そう問われた父は、


「いいえ。よろしかったらそちらで面倒を見て頂けませんでしょうか。」


無事に入校が認められました。

後で聞いた話ですが、
父は母に私がどこにいるのかを話さなかったそうです。

私の新たな生活が始まりました。

毎日が刺激的で、
本当に上手い人と滑れるのが楽しく、
人生で初めて充実した日々を過ごしている気がしました。

しかし、そんな充実した毎日も、
雪が無くなれば終了です。

スキーシーズンが終われば寮も追い出されるわけで、
16歳の私ではアパートも借りられません。


家に追い返されるのではないだろうか・・・・・・


追い返されなかったとしても、
食べるため生きるためには働かなくてはならない。

不安を抱えながら、
校長先生に思い切って相談。

校長先生は大きな笑い声をあげながら、


「心配するな! うちに来い! 仕事も任せろ!」


本当に嬉しかった。

シーズンが終わると、
荷物をまとめて校長先生の家へ。

家に到着すると、
明日から私が何をするのかがすぐに分かりました。

日本家屋の立派な家の前に、


『五十嵐工務店』


と、大きな看板が掲げてありました。

その日の夕飯を食べながら、


「これ作業着、これ金づち、これノコギリ、これノミ、これカンナ・・・」


「朝は6時ね」


朝6時

 作業場の掃除
朝7時

 「ご飯だぞ!」で朝食

朝7時45分

 続々と職人たちが出社

朝8時

 社長登場

社長は校長先生の父親で、
五十嵐工務店の2代目。


「佐藤君、よろしくね。頑張ってね。」


それが私の大工人生の始まりの日。

【家をつくる】という使命

仕事が終わって夕飯の時、


大工とは

家をつくるとは

人として


などなど、
毎日毎日社長から教えていただきました。

それまで生きてきた人生には無かった、
色々なことを学ばせてもらった時代です。


「大工とは家をつくるのが仕事だが、
 それだけじゃないんだぞ。
 そこに住む人の人生も一緒につくるんだ。 
 だから妥協も手抜きも一切許されない。」


五十嵐工務店。

そこには腕に自信のある職人が集まっていました。

まさに大工集団。

柱も荒木のまま現場に入ってきて、
現場で1本1本職人がカンナをかけて仕上げていく。

細部にわたり一切妥協せず、
納得できなければ壊して作り直す。

そんな職人たちもことあるごとに、


「家はつくる人たちの思いで、ぬくもりが変わる。
 同じように見えても変わるんだ。」


と熱く語ってくれました。

人として、
家をつくる人間として、
多くの事を教えてもらい、
26歳までの10年間、
充実した時間を五十嵐工務店で過ごすことができました。

ちなみにスキー選手への夢は、
21歳の時の大きなケガで諦めざるを得なかったのですが、
アスリートとしての夢を無くした挫折感から、
一時は投げやりになったこともありました。

しかしそんな時も、
しっかりと私を引き上げてくれたのは、
大工の仲間でありスキーの仲間でもある人々でした。

そのおかげで、


【家をつくる】


という魅力にどっぷりはまり、
使命感を感じ、
次の人生の目標にできたことを今でも感謝しています。

10年ぶりの山形へ

26歳、結婚を機に庄内へ帰ってきました。

遊佐町の工務店に就職させていただき、
10年ぶりに地元での暮らしが始まりました。

私の中では家をつくることは、
日本全国どこに行っても同じだと思っていました。

しかし、私の思いとは異なり、
大きな差があることを知ったのです。

私が五十嵐工務店で学んだのは、


断熱性が高く丈夫な家づくり


地元に帰って目の当たりにしたのは、


断熱性の無い不安定な家づくり


しかも価格は五十嵐工務店の方が安い。

なぜだろう・・・・・・

疑問を感じた私は、

断熱材を入れること、
丈夫な家をつくること、
その大切さを会社に訴えました。

しかし、若かった私がどれだけ伝えても、


「北海道と山形は違う」


「値段が高くなったらお客さんが来ない」


8年もの間訴え続けても、
全く耳を傾けてもらませんでした。

自分の務める会社以外の工務店に手伝いに行っても、
さほど変わらず、


山形ではそんなもんか・・・・・・


と、妥協しようと思ったことも何度かあります。

しかし妥協できなかった。

自分でやるしかない

思いを叶えるには、
もう自分で工務店をやるしかない。

そう決意した私は、
そこから2年の年月をかけ、
必死で学びました。

昼間は普通に大工として仕事をし、
仕事が終わってから人と会って学ばせてもらう。

いつも家に帰るのは深夜。

そんな私に妻は嫌気がさしたのでしょう。

家庭が崩壊。

離婚。

それでも、
理想の家づくりを諦めることはありませんでした。

離婚で引き取った、
当時6歳の娘と0歳の息子。

仕事が終わると一度家に帰り、
夕食を食べさせお風呂に入り、
後は寝るだけというところで娘に息子をお願いして出かける。

娘の、


「いってらっしゃい」


という声を思い出すたびに、
今でも涙が出ます。

子ども達には本当につらい思いをさせました。

そんなつらい時期に、


「夜、こども達だけだと不安でしょ。
 私が見に行ってもいいですよ。」


そう言って、
こども達を見てくれるようになったのが今の妻です。

そのおかげで、
子たちにも笑顔が日に日に増えていきました。

妻にも子ども達にも感謝しきれません。

空間工房として独立

2005年11月

本当に多くの人の手を借りて、
空間工房を起業することができ、
この地で断熱性が高く丈夫な家を建てるという夢が叶いました。

しかし、どうしても家が高額になってしまい、
建てられる人が限られてしまう。


このままでいいのか・・・・・・


新しい挑戦の気持ちが沸き起こってきました。


子育て世代でも安心して建てられる高性能な家を提供する


20代、30代の若い子育て世代の年収でも、
安心して建てられる家。

でもローコスト住宅を建てたいのではありません。

北海道の五十嵐工務店では、
断熱性が高く丈夫な家を庄内地方の工務店より安く建てていた。

この地で適正な価格で家づくりをする。

これは私の使命だと信じ、
全力での取り組みが始まりました。

起業前と同様に日々たくさんの勉強をし、
日本全国の数多くの工務店の話を聞き、
メーカーに直接価格の交渉をし、
協力業者にも粘り強く協力をお願いしました。

少し時間はかかってしまいましたが、

いつまでも家族が安心して快適に暮らせる、


家族と未来をつなぐ家


を適正な価格で実現することができました。

その商品が、


【ミライエ】


です。

性能へのこだわり

おかげ様でミライエは、
皆様のご期待に応えることができる商品となり、
順調にご提供させていただいております。

しかし一方で、
また新たな課題も見つかりました。

それは、
家づくりをする職人が変わると、
性能に差が出てしまうということでした。

このことは、
基礎工事、大工工事、水道工事、
電気工事、板金工事、内装仕上工事、
などなど全てに言えることでした。

そこで私は、
全協力業者と個々に話をする機会を設け、
私が考える、


【子育て世代でも安心して生活できる、
デザインにこだわり、地震に強く、
断熱性の高い、何十年も暮せる家づくり】


に本気で賛同してくれる業者だけを選ぶことに決めました。


同じ志で家づくりをする強固な1つのチームをつくる


そうすることによって、
性能に差が生ずることなく、
お客様に本当に良いものだけを提供できる。

空間工房が建てる家は年間20棟とさせていただいています。

この理由は、
1つのチームでの家づくりの限界だからです。

20棟以上になると、
チーム外の業者を入れなければ家づくりができないからです。


「家はつくる人たちの思いで、ぬくもりが変わる。
 同じように見えても変わるんだ。」


今でも大切にしている、
北海道の修行時代の先輩の言葉です。

自分の失敗を教訓に

私自身も平成20年に自宅を建て替えました。

妻が好きな色をメインに使い、
リビングとお風呂は広く、
寝室には備え付けのテーブルや本棚。

ウォークインクローゼットやシューズクローゼットも広く、
棚も多く設置しました。


しかし、妻にとっては不満だらけの家・・・・・・


せっかく建てた家なのに毎日クレーム。

イライラする毎日。

しかし、この経験が、
私の家づくりに対する考え方を大きく変えてくれました。

建築のプロが、


常識


と思うことが一般の人には、


非常識


建築に携わっていない人の方が、
型にはまらない自由な発想を持っていることに気付いたのです。


お客様の立場に立ち

お客様一人一人に寄り添い

お客様の思いをしっかりと形にしていく


そのために、
女性スタッフを中心に置くことにしました。


家づくりの体験


家を買うのではなく家をつくる。

この感覚を大切にしたいと感じました。

女性スタッフの活躍のおかげで、
空間工房の家づくりは、
お客様からとても好評をいただいております。

変わらぬ家づくりへの想い

時代が変わり、
住宅の性能や価格やデザインなども変化し、
家に対する想いも多様化しています。

しかし、
私が想う家づくりは、


家族の笑顔を未来につなげる家づくり


であり、
これからもこの想いは変わりません。

そこに住まう家族が豊かで幸せであり続けられる、
そんな家づくりを伝承していくこと。

それが私の使命だと肝に銘ずるとともに、
私たち空間工房は、


地域に貢献し続ける会社でありたい


そう願っています。

B3429009-B9FC-4D66-8778-AC761F1B9482.jpg

空間工房代表 佐藤孝

知って得する魔法の「小冊子」限定プレゼント無料

  • 小冊子
  • イベント